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コラム 牧師の書斎から

2008年4月13日号 澤村信蔵師

先週『真理の源を求めて』という本を読みました。パプアニューギニアの奥地にいるファロパ族の言語に聖書翻訳をする宣教師の歩みを記した本です。キリスト教という文化のない中では、単に一つ一つの言葉を逐語訳しても全く意味は通じないので、言葉の本質の意味を全く知識のない人に説明し、共通の意識を持つ作業を通して、福音の本質を理解していくのです。

その中の一つに“贖い"という言葉があります。彼らに全く理解出来ないものでした。奴隷を解放し、その代価を払うという風習は彼らにはありませんでした。でも、彼らにも良く似た風習がありました。それは、一族の中で、何か相手を誤って傷つけるようなことをした時に、相手が許してくれるまで、自分の持っている高価な財産を積み上げるのです。そして、最後に、これで十分だとなった時、「スポ(もう十分だ)」と言って許されるという"ドゥプタポ"(取引)という風習です。「私たちが死ぬべきところを、イエスが、“ドゥタポ"に来られた。彼は、私たちを自由の身をするために、自分のいのちを差し出した。」(マルコ10:45) そして、神がそれで十分“スポ"と言われたことを知って、彼らはとても信じられないと驚きました。「これまで“ドゥタポ"で、どれほどのものを差し出したか分からない。でも人のいのちを差し出したことはない。いのちを差し出す人間などいない。」と・・・贖いの本質は、まさしくここにあるのです。何かを償うために、多くのものを差し出すものはいたとしても、たった一つしかいのちを差し出す人間はいないのです。でも、イエス様は私たちを救うためにいのちを差し出してくださったのです。私たちのためにいのちを差し出してくださったイエスを今日もほめたたえましょう。