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コラム 牧師の書斎から

2008年6月1日号 小平牧生師

50才になって一ヶ月余が過ぎた。20代の駆け出しの若い頃は、早く年を取りたいものだと思っていた。40才や50才になれば外側も内側もそれなりにしっかりした一人前の男になっているのではないか、そう思ったからだ。たしかにそのころの僕にはその世代の男性がそのように見えた。しかし、今自分が実際にその歳になってみると、何というのか、「50才ってこんなものだったのか。」そんな感じがする。 …そんなことを考えていたら、小島誠志という方の 「牧師室の窓から」という本の中に、ちょうど同じようなことが出てきた。ある宣教師との対話から。

「『実際にこうして自分が50を過ぎてみると、あまりにも中身がないこと気付かされます。この年齢になれば、なにかあるはずだ、と思ってきたんですが、もちろん、勉強も足りないからだろうと思いますが。』 勉強が足りないー
それは私も同じ。しかしおそらく、勉強が足りたってそれで50歳の空白感が満たされることはないのではないか、と思います。50になったって60になったって、人間の中身が満たされるなんてことはないのではないか。人間はだれも、自分で埋めることのできない空白をかかえて生きていて、その空白においてこそ神に出会うのではないだろうか。」

これまでいろいろな経験をさせていただいて来た。肩書きのある立場も与えられた。しかし、いつも、自分の中身の軽さを覚えてきた。自分だけが知っている、こんな自分、これで良いのだろうかという思い。でも、この文章を読みながら、これでいいのだ、この思いをむしろ持ち続けていくことでいいのだ。そう思えた。