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コラム 牧師の書斎から

2008年8月24日号 小平牧生師

私たち牧師は、神学校で専門的な学びと訓練を受けて教職者の資格を得て、公に認められた立場と役割が与えられてきた。最初の年から「先生」と呼ばれ、それゆえに私も人一倍自分の召しに対して自覚を持って来た。しかし、牧会や伝道の現場において、人の悩みに耳を傾け、励ましを与え、導く者ではあっても、一方で自分自身の個人的な問題については、それは「自分と神様との関係の中で解決していくべきこと」であって、牧師であればそれが当然と思われているだろうし、私もそう思ってきた。自分の問題は隠れたところで自分で解決すべきであり、必要があれば祈って答えを求め、現状はどうであっても人に話して助けを求めないのが信仰者である。小さい頃からどこかそのように教えられて来た。でも実際にはそうできないので、自分のうちに二面性や信仰的劣等感が生まれやすい。

もちろん、かつても今も、人間には頼らずただ神様だけに信頼していく信仰者の姿はすばらしい。しかし人生にはいろんな局面がある。アブラハムやモーセも人間的なものにより頼んでしまったことが記されているのはなぜか。神様との縦の関係は強調していきたい。しかし、夫婦や家庭が崩壊し、職場や学校では人間関係がこれほど傷ついている現代の日本社会において、それを唱えるだけでいいだろうか。こんなことを書くと失望を与えるかもしれないが、教会や牧師の世界にも競争社会が生まれ、互いに弱いところを見せられず、自分の感情を殺して笑顔ではいるが、内心は自信がなく他と比較ばかりしている。そんな牧師は案外多い。牧師の場合はそれが隠されたままになってしまいやすいからこそ危険がある。牧師は献身者であっても聖人でも鉄人でもないのだ。皆さんと同じように、強さも弱さも持ち、家族も老後もあり、家やお金も必要な人なのだ。それを周囲も、何よりも牧師である自分自身が認めないと、やがてどこかで破れる。