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コラム 牧師の書斎から

2008年9月21日 小平牧生師

すでに何度か記していますように、来年は日本プロテスタント宣教150周年の記念の年です。200年間の鎖国の時代を終えて1859年に横浜、長崎、神戸などの港が開かれ、ヘボン、ブラウン、シモンズが横浜に、フルベッキ、リギンスという人々が長崎にと続いて福音宣教のために来日しました。彼らはみな牧師であるわけではありませんでしたが、そんな彼らが公的には開国しておらず、「切支丹禁制高札」も撤去されていない、その年の内に日本に来たことは すごいですね。そこからわずかな月日のうちに、後の日本の各分野の指導者がイエスキリストの福音によって救われたのです。それは想像しただけで胸の躍るできごとではないでしょうか。

今年の春、熊本を訪れた時に花岡山に登りました。そこは市内を見渡せる小高い丘で、そこに「熊本バンド」の碑が立っています。1876年1月、熊本洋学校の教師ジェーンズによって福音を聞いた約40名の学生がこの山に登ってイエスキリストへの信仰とその宣教に身を捧げる決意を趣意書にあらわしました。すでに「文明開化」の時代とはいえ、かつての天草の乱などの影響からクリスチャンに対する偏見が根強かった熊本では、この出来事は一大事となり熊本洋学校は同年9月に廃校になります。そしてこの40名は、米国から帰国した新島襄によって開校したばかりの京都の同志社に大挙して入学します。今では有名な同志社も、当時は今で言えば無認可チャーチスクールです。1879年に同志社は15人の最初の卒業生を送り出しますが、全員が「熊本バンド」の学生でした。そして、彼らは様々な方面で新しい日本の出発のために活躍します。

花岡山に登り、当時の若者たちに与えられていた熱い思いに触れました。同時に今ひとつ燃えていない自分自身を思いました。何が自分から情熱を奪っているのかと思いました。忙しさ、思うように進まない宣教、消極的な思いや人々の声、etc。しかし何よりも「イエスキリストへの愛が冷えている」のだと思いました。「バカでもいいから燃えていたい。」そう思います。(自分がバカでないようなことを言ってすみません。)