ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2008年10月5日 小平牧生師

「私は教会につまずきました。もう教会には行きません。」牧師としてのこれまでの働きの中で、このようなことばを聞かなければならない辛い経験が何度かあった。たしかに教会の交わりにはいつも何らかの問題があり、私たちは不完全な者たちであるが、言い訳は出来ない。そのたびに申し訳なさと、自分の愛の足りなさと未熟さを痛感させられてきた。しかし同時に複雑な思いがするのは、ある方はそれまでは「この教会はすばらしい教会だ」とか「良い牧師だ」と、こちらが恥ずかしくなる程に言って下さる方であったことだ。教会や牧師に対する期待が高ければ高いだけ失望も大きいのだろうか。しかし当然のことだが、牧師にも教会にもすぐれたところと同時に欠けも弱さもある。少なくとも一人一人の期待に応えられる部分とそうでない部分が現実にはあるだろう。お互いに確認しよう。神様が私に与えられた教会はこの教会であることだ。私にとっての家族は自分の家族以外にはないのと同じだ。どの家族にも良い部分と弱い部分があり、父親には父親の、母親には母親の強さも弱さもある。それを全部ひっくるめて自分にとって最善の家族であるのと同じように、この教会はあなたにとっての唯一の教会なのだ。

むしろ、私たちはそのようなつまずきを覚える時にこそ、自分がイエスキリストを「主」と呼ぶ者とされていることを自覚しよう。「主」とは新約聖書時代の奴隷制度社会で生きていた言葉であって、イエスキリストを「主」と呼ぶことは、自分がイエスキリストの「奴隷」であることを意味していた。当時のクリスチャンはあえてこの言葉をそのまま用いて、イエスは自分の主であると告白したのだ。自分はイエスキリストの奴隷である。だからこの方の言葉にはどんな理由があっても従っていきたいと願い、この方のからだである教会に自分自身を喜んでささげていったのだ。あなたはいかなる意味でイエスを「主」と告白しているのか考えてみて欲しい。その言葉の意味と重みを取り戻そうではないか。

そして「主」であるイエスキリストが「奴隷」である私のためにいのちを捨ててくださったように、私たちもこの教会をそして兄弟姉妹を愛そうではないか。