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コラム 牧師の書斎から

2008年10月19日 小平牧生師

人生には様々な出来事が起こります。クリスチャンでも、そうでなくても、思わぬことや受けとめ難いようなことを経験します。しかし、神様を信じていることに違いがあるとすれば、すべてのできごとには意味があり、そこに神の時があると信じることができるということではないでしょうか。聖書には苦難を経験した人々が出てきますが、例えば、ヨセフは自分をエジプトに売った兄たちに、「神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは…あなたがたを生きながらえさせるためだったのです」(創世記45:7)と語りました。彼は兄たちに復讐してもよいはずなのですが、しかし自分に降りかかった苦難の背後にある神の御手をしっかり受けとめたのです。それは神様を信じていたからです。しかしその逆の例もあります。湖の上で激しい突風に襲われたイエスの弟子たちは、その出来事に神様の関与があることを読み取ることはできませんでした。今まで主イエスの奇跡を見てきたにもかかわらず、です。主イエスは、降りかかる災難だけを見て不安に陥った弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです」(マルコ4:40)と言われました。もちろん優しくあわれみを込めてです

私たちがよく知っているみことばに「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)とか、「すべて時にかなって美しい」(伝道者3:11)とあります。しかし、「益」や「時」を判断できるのは人間ではなく神様です。私たちは、自分の現状を見て嘆いたりあきらめたりするのではなく、自分の人生には神の目的があり、神の時があることを信じて、主を見上げて最後まで忍耐強く歩みましょう。主イエスは弟子たちに、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)と言われました。すべてがわかることよりも、私のすべてを知って愛をもって導いて下さる神様を信頼する方が、幸せで平安な人生です。