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コラム 牧師の書斎から

2008年10月26日 小平牧生師

クリスチャン、特に若い人がこの社会でクリスチャンとして生きる時に最も現実的に迫られることは何かと言えば、性についての考え方ではないかと思います。以前は日本の伝統的倫理や道徳によって守られてきたものが崩れ去った今は、その考えが古いとか新しいということではなく、イエスキリストの福音に照らしてもう一度考えてみる必要があります。

今では「婚前交渉」などという言葉は死語になり、「できちゃった婚」も珍しくはなく、最近はそれでは聞こえが悪いと言うことで「授かり婚」と言うようになり、自分たちが順序を違えた結果さえも神様の責任にしようとしています。しかし、責められないのは、若い人々は親から家庭の現場で結婚の喜びについて教えられることなく、インターネットや雑誌などが流す商業的な無責任情報によって惑わされているからです。間違ってはいけないのは、性はすばらしい賜物であり、(男女ではなく)夫婦という最高の関係に神様が与えて下さったものであることです。

最近は、結婚する前にしばらく試してみようという人が多いようです。しかしこれは間違いです。結婚がいっしょに生活することやお互いの欲望を満たすためだけならば、それもあり得るかもしれません。けれども、結婚の本質は互いの愛と献身の約束です。愛は実験できないものです。試してみようというその根底には、愛ではなく自己中心があります。自分を満たす存在でなければ相手を捨てることもあることが前提なら、それは愛ではありませんし、相手を人格ではなくモノのように見ているのでしょう。

神様は、私たちの方は神様を愛していないのに、私たちを愛してくださいました。場合によってはいつでも私たちを捨てることができるという前提で愛して下さったのではありません。「あなたを絶対捨てない」と言われました。私たちはその愛を知ったのです。そして「わたしがあなたを愛したように、互いに愛しなさい」と言われます。だから、自分には愛する力はなくても、私たちは神の愛で生きようと願うのです。