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コラム 牧師の書斎から

2008年11月16日 小平牧生師

エーリッヒ・フロムという名前を聞かれたことがあるでしょうか。彼はナチスの迫害を受けてアメリカに移住した社会学者ですが、彼の「自由からの逃走」という本を、学生の時に課題で読んだことがあります。その中で、彼は、個人の自由がどのようにしてナチズムの全体主義につながったのか書いています。その本が手許にありませんので正確な引用ではありませんが、彼は次のような説明をしていました。現代の社会は人々に自由を与えた。ところが、自由というものは個人に孤独をもたらす。そのため、現代人は、自由から逃れて新しい従属を求めるか、それとも完全な真の自由を求めるか、その二者択一を迫られる。フロムは、自由を得た人々が真の自由を求めずに全体主義に従属していくプロセスを、このように述べていました。

私は、同じことが私たち一人一人にも言えるのではないかと思うのです。神様はイエスキリストによって私たちを解放し、私たちに自由を与えて下さいました。しかし、いざ自由が与えられると、そこには責任が伴うことに気がつきます。神様のことばに従うかどうか、真理を選ぶかどうか、自分が決めなければならないという現実に直面させられます。私たちには自分中心に生きる自由もありますが、隣人に仕える自由もあります。人の悪口を言う自由もありますが、言わない自由もあります。そこで真の自由を生きるためにはきれいごとではなく、自分の欲望や罪と戦わなければなりません。その結果、多くのクリスチャンが、せっかく与えられた自由を放棄して、自分を全体の声に従属させてしまっていないでしょうか。私たち人間は真に自由であるべきです。そのためのイエスキリストの十字架です。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」ガラテヤ5:13