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コラム 牧師の書斎から

2008年12月21日 小平牧生師

今朝は今年のクリスマスの記念主日です。私たちは、馬小屋においてお生まれになった主イエスの姿の向こうに、十字架上で血を流される主イエスの姿を見ます。

パウロは言いました。「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。…」「気が狂っている。」それは決して良い言葉ではありません。しかし、だとしたらいったいどんな言葉で表すことができるでしょうか。普通の言葉ではとても表せないようなことが人生に起こった。キリストの愛が罪にまみれた私を取り囲んでいることを知ったのです。イエスキリストの十字架によってです。それを知ったら到底正気でいられるはずはないのです。

イエスキリストは私たちに代わって、十字架の死をその身に引き受けられました。私たちの愚かさ、私たちのどうしようもない弱さ、私たちの身勝手さ、それらまるごとこの私のために、主イエスは代わって十字架を負われ、神の赦しと愛を示され、私たちの生きる道を示されたのです。十字架によって、私たちは自分の惨めさや愚かさや醜さを知ります。しかし同時に、その私がどんなに愛されているか。どんなに受け入れられているか。どんなに赦されているかを知るのです。それも無条件で…。

「わが愛する主よ、教えて下さい。全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたはみからだから御血を残らず流し尽くされたのですか。主よ、私は知っております。それはあなたがどんなに深く私を愛してい給うかを、あなたが示して下さったのだということ。」(ボナベントゥラ)