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コラム 牧師の書斎から

2009年2月1日 小平牧生師

家を飛び出していった息子が突然帰ってきた時、父はすぐに祝宴を始めます。
その時、兄息子は畑で野良着を着て汗を流して働いていました。ああ、お父さん、もう少し待ってましょう。お兄さんが帰ってきてから「あいつが帰ってきたから、いっしょに迎えてくれないか」と相談して、それから始めたなら、兄の気持ちも違うのに。ところが、父親はまるで罪深い弟しか目に入らないように弟を迎えました。
やんちゃな弟だって、自分がどんな立場なのかそれくらい分かっていたのです。彼は帰る道々考えました。「自分は罪を犯した。自分は息子と呼ばれる資格はない。それでも雇い人のひとりにでもしてもらえれば。」もし、弟の考えたそのとおりに、父が「まずはあいつは謹慎させる。少なくともその間は息子としては扱わない。おまえも弟と思う必要はない。雇い人だ。自分でした責任は自分でとらせなければならない。彼のためにもここは懲らしめよう」と、そう言ったなら、兄も納得したかもしれません。
ところが、弟息子のことばを父はさえぎるようにして命じます。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」
以上は、イエス様が話された「放蕩息子のたとえ」です。どんなに考えても、父のやり方はやっぱりおかしいです。そんなことされたら、まじめで正しく生きることは何になるのか。誰でもそう思うのです。しかしみなさん、そこにこそ、自分の正しさを義とすることによって神の愛を拒み続ける自分自身がいることがわかりますか。父は自分が非難されても良いのです。非常識だと言われることは覚悟の上です。しかし、そんな父の愛によって弟の罪がおおわれ、弟は生きたのです。・・・私たちは神の愛を知っているでしょうか。