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コラム 牧師の書斎から

2009年2月22日 小平牧生師

香川県の病院で起こった受精卵取り違えが大きな問題になっています。本来は胎内で行われる受精を体外で行うことを体外受精と言いますが、その受精卵を子宮に戻す際に間違って異なる子宮に戻してしまったのです。そして間違ったことに気がついた病院は妊娠九週目の胎児を人工中絶したということでした。同様の事例は今までもあるそうですが、今回の場合は実際に妊娠して生命が誕生したのです。私自身は不妊治療のすべてを否定はしません。子どもが与えられていない友人や知人の思いをも知っています。そのために悩み、祈り、考え、また実際にどんな思いで治療を受けておられるのかも理解しようとしているつもりです。
しかし、今回の報道で、このできごとが「単純ミス」と言われていること、そしてその「単純ミス」が人口中絶によって後始末されたこと、またその女性だけが被害者として語られていることに納得がいきません。間違われた女性は確かに被害女性であるのでしょう。しかし、真の被害者は、自ら選ぶことなく異なる母胎に入れられ、そして間違ったとわかると今度は人工的に中絶されて葬られた、ひとりの人間であるその赤ちゃんではないのでしょうか。この赤ちゃんの本当のご両親にとっても、このいのちは彼らの願っていた赤ちゃんのいのちだったはずです。
病院は「ミスが起こることは否定できない」と言いながら、こんな大事なことでミスが起こった場合にどうするのかは考えないのでしょうか。失敗作品のようにゴミ箱に捨ててしまうのですか。すべてのいのちに失敗作品はありません。
もし私たちがミスをしてしまう可能性があるならば、そのミスの中で生まれてくる赤ちゃんが失敗作品ではなく最高の作品としてを生きることができるように、私たちは力を合わせて助け合うことができないのでしょうか。
それにしても、人工中絶のことを考えるその度にヨセフとマリヤのことをあり得ないと思いながらも考えます。今の時代であれば、当然のように考えたのではないでしょうか。