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コラム 牧師の書斎から

2009年3月8日 小平牧生師

ある鍛冶屋が旅行に出かける前に助手に仕事を任せました。馬の蹄鉄を一つ与えて、同じ蹄鉄を100個作っておくようにおくように命じたのです。やがて主人が旅行から帰って来た時、そこには主人が命じた通りに馬の蹄鉄が100個出来上がっていました。ところがよく見るとサイズや形が違います。同じものを作るようにと言ったのに、どうしたのでしょうか。その原因が分かりました。
たしかに助手は最初は主人が作ったものを基準に馬の蹄鉄を作りました。しかし二つ目を作る時には、主人の作ったものではなく自分が作ったものを基準に作りました。そしてそれをもとに三つ目を造り、さらに三つ目をもとに四つ目を作りました。そしてそれが100回繰り返された時には、主人が最初に与えたものとはサイズも形も明らかに変わってしまっていたのでした。
私は、時々、「イエス様は、現代の私たちのような教会のあり方を、最初からイメージしておられたのかなあ」と、心配になることがあるのです。たとえば大きな会堂を建てることや、教会には一人の牧師がいることや、日曜日にはみんなが集まって来てメッセージを聞くことや、そういうことはみんな大事なことではあっても、「これがイエス様が考えておられた教会のスタイルだったのだろうか」と考えてしまうのです。そう思うと、実は夜も眠れなくなるのです(だから最近目が腫れてる?)。この鍛冶屋の話ではありませんが、私たちが一生懸命ではあっても、親や牧師や先輩の姿を真似て「これがクリスチャンです」「これが教会です」と言っても、それを繰り返しているうちに最初にイエス様が考えておられたのとはずいぶん違うものになってしまっていたら、イエス様に申し訳ないと思うのです。そうならないために、聖霊が私たちに与えられ、聖書を与えて下さったのです。今の時代やこの世の文化の中に斬り込んでいきながらも、でもいつも最初にイエス様が考えておられた姿を追い求めなければならないと思っています。