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コラム 牧師の書斎から

2009年4月5日 小平牧生師

クリスチャンとは罪を犯さない人のことではありません。私たちはだれでも失敗もすれば罪を犯すことがあります。しかし、むしろクリスチャンの生き方は、だれかが自分に対して罪を犯した場合に現れて来るのではないかと思います。

先週は、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」というイエス様の教えから、「ふたりだけのところで責める」ということについて書きました。それが「兄弟が罪を犯した」時の、私たちのあり方なのです。自分に対して罪を犯した兄弟のところに、こちらから「行きなさい」というのです。そういう場合、多くの人は自分を傷つけた相手に腹を立てながら「向こうから謝りに来るべきだ」と、待っていることの方が多いのではないでしょうか。プライドがあるからです。しかし、イエス様が与えて下さったクリスチャンの生き方は、もっと積極的で大きな生き方です。

二つ目のことは、「責めることは、兄弟を得るため」です。つまり「互いの関係を深める」ことが責めることの結果なのです。多くの場合、責めることによって互いの関係がさらに悪化してしまわないでしょうか。それは、責める言葉が相手にとって非難や裁きの言葉として受け止められたことが原因だと思います。実際に、責めることの動機が人間的な義憤の思いであることが多いのも事実ではないでしょうか。ヤコブの手紙1:20には、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」とあります。しかし、責めることは自分の正しさを証明するためではなく、自分の愛を表すことです。責める言葉は、語る者の心の動機によっては非難や裁きの言葉ともなり、愛の言葉ともなります。しかし、人は非難や裁きの言葉によって変えられるのではなく、愛の言葉によって変えられるのです。私たちを裁くことをしないで愛して下さった主の十字架を思いましょう。三番目のことは、来週記します。