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コラム 牧師の書斎から

2009年8月9日 小平牧生師

私は、礼拝の時によく泣きます。賛美をしながら感情が押さえきれなくなるのです。メッセージを語りながら言葉がつまってしまうことが何度もあります。
神様の恵みを思うとこらえることができないのです。人前で泣くのは格好の良いことではありませんし、自分としては感情的にみられることを避けたいのでがまんするのですが、どうしようもないのです。ですから一人で祈っている時は遠慮なく泣きます。自分自身のことを考えてみると本当に不思議ですが、若い頃の私は、神様の愛に感動して涙を流して語っている姿や、泣きながら祈っている人を見ても何も思いませんでした。むしろそのような人を馬鹿にしていたかもしれません。その頃の私は、信仰的にはもちろん、人間的にもまだわからなかったのだと思います。しかし今は、神様の恵みを知り、また人の心を多少は理解することができるようになりました。今は、自分のことで泣くことはまずありませんが、神様の愛や人々の罪や悲しみを思うと泣けてしょうがないのです。

実際、イエス様もよく泣かれました。イエス様は死んだラザロの墓の前で泣かれました。その涙を見て人々はイエス様がどれほど彼を愛していたかを知ったのです。またイエス様はエルサレムの街を見ながら涙を流されました。神に愛されていながら、それを受け取ることをしないイスラエルの姿を思いつつ泣かれたのです。

泣くという行為を求めているのではありません。しかし、自分の感情を抑えつける必要はないのです。むしろ喜ぶ時に喜び、泣く時に泣くのは、私たちが健康であるということではないでしょうか。私たちの賛美を感情的にする必要はありませんが、しかし感情の込められていない賛美は賛美ではありません。私たちは、神様の前で、大いに喜び、大いに泣きましょう。