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コラム 牧師の書斎から

2009年10月18日 小平牧生師

昨日は武蔵野霊園にある教会墓地で墓前礼拝が行われました。一般に追善供養とは、亡くなられた人があの世で間違いなく幸せになるように捧げるものですが、クリスチャンにそれは必要ありません。なぜならイエスキリストの十字架と復活によって救いに必要なことは全部終わっているからです。では、なぜ墓前礼拝を行うのでしょうか。それは、死んだ人が間違いなくあの世で幸せになるためにではなく、生きている人たちが間違いのない人生を生きるためです。間違いなくとは、「永遠」ということを忘れないで、ということです。

人が召された時、私たちは、その人が「亡くなられた」という言い方をします。そして家族や財産が「残された」と言います。一方、召された本人にとっては何が「なくなり」、何が「残った」のでしょう。召された本人にとって残っているのは、まず自分の存在です。また召された人にとっては、地上の私たちという存在がなくなることも愛が薄れることもありません。では反対に、召された人にとってなくなったのは何でしょうか。まず、死です。召された人にとって死はもはや問題でありません。死だけではなく、別れや悲しみ、肉体の病や苦しみ、また精神的なプレッシャーやストレス、劣等感や競争心も全部なくなります。たとえば、ここに豊かな人と貧しい人がいます。この二人が死ぬ時に何がなくなり、何が残るのでしょうか。この二人が死ぬと、豊かな人の財産と貧しい人の貧困がなくなります。しかし、もし豊かな人が地上において自分の豊かさによって貧しい人を助けたなら、豊かさや貧しさがなくなり、助けた事実さえなくなっても、その愛が残ります。
天国は単なる希望や空想上の場所ではありません。私たちの国籍のあるところ、永遠を過ごす場所です。みなさん。永遠を感じさせる教会を形成しましょう。永遠に残るものを大切にすべきです。過ぎ去るものにこだわるべきではありません。