ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2009年11月15日 小平牧生師

政治家や評論家のコメントを読んで、本当に「残念だなあ」と思う。聖書はもとよりキリスト教をあまりにも知らなさすぎるのだ。知らないのは、伝えていない私たちクリスチャンの責任でもあるが、間違ったことを知ったかぶりで言うことには腹が立つ。
たとえば、先週M党のO幹事長が記者団の前で次のように述べたことが新聞各紙に掲載された。「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ。」もちろん、これは仏教会の票を狙っての発言ではあるが、それにしてもいい加減なことを言うのはやめて欲しいと思う。こういう発言を繰り返すから、神話のような根拠のないことを真に受ける人が起こる。日本社会が自分と異なるものに寛容だと思ったらそれは大間違い。それならば日本で教会が弾圧されクリスチャンが殉教してきた事実をどう説明するのか。欧米も日本も人間は同じ。すべての人は自分を神としている。すべての人は自分には寛容、人には排他的。それが罪人である人間の姿だ。

こういう例はいくらでもあるが、もう一つ。先日もある兄弟が、有名な経済学者で人気作家でもあるK氏が最新の著書に次のようなことを書いていたと言っていた。「キリスト教は自然を支配しろという聖書の教えにもとずいているので、そのために環境破壊が進んだ。日本文化こそ自然との調和を教える仏教思想にもとずく自然保護の文化なのである。」自分は外国生活が長く聖書やキリスト教を知っていると断った上でこれである。ばかばかしくて、みなさんには説明する必要もないが、自然破壊を進めたのは聖書の教えでもキリスト教でもない。
自然破壊を進めたのは、すべての造られたものを正しく管理するように命じられた創造者である神のことばに背いた人間の罪と欲望のゆえである。こういう人たちが求めている政治や知性とはいったい何か。その一番根底にあるべき福音を、私たちは伝えるべき責任を持っている。