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コラム 牧師の書斎から

2009年11月29日 小平牧生師

みなさんはイエス様を思い浮かべる時に、どんなイエス様の顔を思い浮かべますか。十字架を前にイバラの冠をかぶせられ苦しまれるイエス様を思い浮かべるかもしれませんし、子どもを抱き上げられた柔和な顔のイエス様を想像するかもしれません。先日韓国で泊めていただいたお宅には、爆笑しているイエス様の絵が飾られていました。おそらく弟子たちとか、あるいは収税人や罪人と言われる人たちと食卓を囲んでおられる時のイエス様でしょう。それらのイエス様の顔は、全部イエス様です。イエス様は、まことの神であり、同時にすべての面で私たちと同じ人でしたから、喜ばれ、悲しまれ、怒られ、憂うつにもなられたり、寂しさを感じられたり、お腹もすかれました。(私と違うのは、お腹が空いても不機嫌にはなられなかったというところでしょう。)なぜこのようなことを書いたかと言えば、私たちは、案外、そのようなイエス様の姿の中で、自分の「お気に入りのイエス様」を造りあげていることが多いのです。ある人は悲しみのイエス様を、ある人はやさしいイエス様をというようにです。

ある時まで、私はイエス様の十字架の苦しみを理解していませんでした。つまり、イエス様は神様だから、釘を打たれても耐えられるし、むち打たれても我慢できる力があるように、何となくどこかで考えていたのです。しかし聖書を読むとそんなことは書いていません。イエス様は私たちを愛しておられたからと言って、余裕綽々で十字架にかかって下さったのではないのです。イエス様は父なる神様に対して「十字架は避けさせて下さい」と嘆願されたのです。それでも「それがみこころなら」と言って十字架に向かって歩まれたのです。もし私がその立場に立てば感じるであろう恐怖や苦しみなどのすべての思いを、イエス様はすべて体験されたのです。そういうことすべてを含めた十字架の苦しみだとわかりました。そのことがわかった時に、心に感謝があふれました。泉水満さんが三年間の病の中で経験された死の恐れや肉体の痛みのすべてをご存知であるイエス様が、彼の主となられたのです。再会。