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コラム 牧師の書斎から

2010年4月18日 小平牧生師

私たちの教団の聖書学院には、私が在学していた当時は三学年男女あわせて20名の修養生(と呼びます)が学んでいました。非常に恵まれていたと思います。しかし、残念ながら現在は修養生はいません。あまりにナチュラルな羽鳥の環境のためかと言えば必ずしもそうではなく、他の神学校も似たり寄ったりです。もちろん、牧師がいなくても伝道はできますし、献身者とは牧師のことだけではなくすべてのクリスチャンのことであり、神様の召しによってそれぞれの社会に遣わされているのです。そのためにあえて牧師ではない道を選んだ人もおられます。しかし、神様が牧師という務めを教会のためにおいておられることは聖書の教えていることです。

「自分の生涯を主に牧師としてささげる人が、なぜ起こらないのか。」このことは私にとって大きな悩みです。

二つのことを思います。一つは、私たち牧師の責任です。私たちが輝いて牧師の務めをしているなら、「先生のように牧師になりたい」という人が出てくるはずです。なぜそういう人が次々にでて来ないのか。「牧師の仕事は人生をかけるに価しない」と感じさせる奉仕であったり、もしかして「あのようにはなりたくない」と感じさせるようなことがあるならば、申し訳ないことです。

もう一つは、お互いが「イエス様に従う人生が最善である」と、本当にそう信じているのかということです。そこに本音と建て前はないでしょうか。みなさんはご自分の子どもが牧師となることを願っていますか。我が子の進学や就職のために祈って下さいと願う人はいても、牧師になるように祈って下さいという祈りのリクエストはあるでしょうか。韓国では教会の長老になることを家の誉れとして祝うことを以前に書きましたが、牧師になることはなおさらです。親は子どもが献身するように熱烈に祈っています。決めるのは神様です。しかし、私たちは教会の子どもたちや青年たちが、将来は牧師になるように祈り願おうではありませんか。