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コラム 牧師の書斎から

2010年10月17日 小平牧生師

イエスキリストがエリコの街から出て行かれる時に、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫んだ盲人に対して、イエス様が「わたしに何をして欲しいのか」と聞かれました。あらためて、イエス様はなぜそのように尋ねられたのかと思うのです。盲人にとって目が開かれることは当然の願いです。「病気の人に当然のことをなぜ言わせるのか。」「だまって癒してあげるのが愛ではないか。」そう思う人もいるでしょう。黙って悟って助けてあげることが、日本人は美しいと思うかもしれません。また、自分が口に出して願わなくても助けが与えられることを多くの人は期待しているように思います。

しかし、私は、むしろこの問いにイエス様の愛が表されていると思うのです。

この人に対して「わたしに何をして欲しいのか」と問うことによって、「主よ。見えるようになることです」という願いを告白させますが、それは「この人は目が見えないのだから、目が直ることが当然であり、目が見えるようになればそれで良いだろう」という高いところからの一方的な見方ではなく、イエス様がこの人自身を本当に尊い人格的存在として見ておられるあかしのように思うからです。私たちも、お互いの声に耳を傾け合って相手を知る姿勢や努力が大切です。「あなたのために、わたしには何ができますか。」そのように問いかける関係こそなくてはならないものです。その上で助けが必要ないことがわかったら、それは喜ぶべきことです。また、「私を助けて下さい。」「私のために祈って下さい」と語ることができるなら、それもすばらしいことです。そのように互いを知るつながりこそが価値のあることではないでしょうか。

さて、今日は成増教会の礼拝に出席するつもりでしたが、予定を変更して宮城県の石巻教会の礼拝で奉仕させていただきます。同教会の及川先生が召天されて満一年、まだ専任の牧師がいないままの教会です。主の励ましと力が与えられるように祈って下さい。また私がへりくだって主の教会に仕えることができるように祈って支えて下さい。