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コラム 牧師の書斎から

2010年12月19日 小平牧生師

牧師の働きをしていると、人間の痛みと闘っておられる方と出会うことがある。また社会の不正に対して取り組んでおられる方にお会いすることもある。ところが、その方々の感じ方や考え方というものを受け入れにくいと感じることがある。とても重要な働きであることはわかっており、だれも真似できないような犠牲を払って取り組んでおられることには敬服するのだが、それだけに、その方の持っておられる「こだわり」の強さに参ってしまうことがあるのだ。そして正直に言えば自分も含めてクリスチャンにも「こだわり」が多いのではないだろうか。「愛とはこういうもの」とか、「イエス様ならこうするはず」ということが、人を縛っている。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ピリピ2:6~8

愛が一番大切。イエス様ならどうするかをいつも考えるようにしている。しかし、イエス様のように愛したい、イエス様のように生きたいと願っているのは私自身だ。だから私は自分の当然のあり方や権利やこだわりをイエス様のように捨てたいと願っている。そのように挑戦して生きたいのだ。たしかにイエス様を知れば知るほどそしてこの方の存在が自分の内で大きくなればなるほど、それまでの自分の中の頑固さやこだわりがどんどん小さくなることを経験する。ク リスマスは、私たちがこだわりから解放される時。飼い葉桶の中のイエス様をのぞき込んでみよう。そして幼子のように言おう「イエス様、あなただけで充分です」って。