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コラム 牧師の書斎から

2011年2月6日 澤村信蔵師

先日、「『放蕩』する神」(ティモシー・ケラー:いのちのことば社)という本を読みました。ルカ15章にある放蕩息子の箇所を主題とするわかりやすい本です。いろいろと示唆されることがたくさん書かれていましたが、その中で一番心に残ったのは、題にもなっていますが、「放蕩」する神という言葉です。弟が湯水のようにお金を使い果たして放蕩したことは、すぐにわかりますが、神が放蕩するというのはどういうことだろうか、もしかしたら何かの間違いかもとも思いましたが、題に惹かれてこの本を手に取りました。読んでみると、間違いではなく、まさに神が放蕩されているのです。

弟は、自由奔放。自分のやり方を追求あい、欲望のままに生きています。

そして、全財産を使い尽くしてしまいます。父親を愛する対象ではなく、遺産をくれる存在としか見ていませんでした。それに対して兄は、父のいうことをしっかり聞いて、正しく生きることによって、遺産を受け取る道を選びました。でも、弟が帰ってきて、父が喜んで受け入れてくれる姿を見ても、弟を拒否し、自分は父親に従ってきたのに、正しく報いてもらっていないと文句を言う始末です。どちらの息子も、父親を心から愛しているとは思えない姿が浮かび上がってきます。でも、父親は、二人の息子に、すべての財産を分け与えたのです。どんな息子であるかわかった後も、追い出すことはしなかったのです。それどころか、すべてのものを分け与えたのです。

これは父が放蕩したといってもいいのかもしれません。私たちの父なる神も、私たちのために、むこうみずに放蕩してくださいました。主イエスを与え、ご自分と和解させ、違反行為は責めず、それどころか和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(IIコリント5:19)神様の無尽蔵な恵みがそこにあるのです。御子をさえ惜しまずに放蕩してくださる神を心からあがめましょう。