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コラム 牧師の書斎から

2011年2月20日 小平牧生師

教会の役員会をはじめ、教団の理事会など、さまざまな会議で議論するたびに、その後で多くの場合に自己反省とともに思うことがあります。それは、私自身はやっぱり「自分が正しいのだなあ」ということです。もちろん、正しいことは大切なことです。しかし、私たちはしばしば「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している」 (ルカ18:9) 律法学者のようではないでしょうか。

落ちついて考えてみると気がつくことがあります。それはまず「他にも正しい考えはある」ということです。たしかに、その時は自分の意見の正しさをもって説得しようとしますが、よくよく考えると人の考えでどちらかが完全に正しく、どちらかが完全にまちがっていることなどまずないのです。どちらも正しいかもしれないという余裕が必要だと思わされます。また冷静になってふり返ると「自分は相当感情に動かされている」ということに気がつきます。自分の意見が優勢な時は饒舌になり、このまま相手を打ち負かしてしまう勢いです。結構あるのです。恐ろしいことです。反対に、何と言われようと自分のからに閉じこもって、「私はあなたの意見が正しいかどうかではなく、あなたが嫌いなのです」と言外に言っている人も、案外おられますよね。いや自分も例外ではないかもしれませんが。さらに私は特に深く思うことですが、「自分のその正しさによってだれが活かされているのか」ということです。もちろんその時には、「この人のため」と思って正しいことを語っているつもりなのですが、静かに神さまのみことばによって自分の心が照らされた時に、真実が示されます。自分の満足のため、自分を守るため、さらには自分の暗闇の部分を隠すためということもないわけではないということです。ある時は、イエス様の名前や神さまの愛をもちだしてさえ、正しさを主張する私は、本当に律法学者のようです。