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コラム 牧師の書斎から

2011年4月17日 小平牧生師

今週は受難週。朝起きてみことばを読み思い巡らしている時、一つの賛美が心に浮かんだ。みなさんもきっとご存知だろう。黒人霊歌の代表的な歌の一つ。「君もそこにいたのか」という歌だ。

「君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこにいたのか」。二節以下は「君も聞いていたのか 釘を打ち込む音を ああ何だか心が震える 震える 震える 君も聞いていたのか」。「君も眺めてたのか 血潮が流れるのを ああ何だか心が震える 震える 震える 君も眺めてたのか」と続く。

一人のゴスペルクワイアのメンバーがこの歌の意味を尋ねてきた時がある。「君もそこにいたのか」と言われても、私たちの中に実際にそこにいた人はいない。たしかに今朝の礼拝に出席しているみなさんの中に、イエスキリストを十字架に打ちつける釘の音を聞いた者はいない。だから、かつての私は、イエス様の十字架の話を聞いても「心がふるえる」ということはなかった。しかし、今、私は十字架を思うと心が震える。十字架に向かうイエスキリストを思うと心が震える。なぜだろうか。それは「私もそこにいた」、このからだをもってそこにはいなかったけれども、そのイエスの十字架は私の罪の身代わりの十字架だという、まさに十字架の当事者であることを知ったからだ。イエスキリストは私たちの罪を負って十字架において死なれた。今週は受難週。私たちにイエスキリストをあたえるほど、私たちを愛してくださった神様に賛美を捧げよう。