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コラム 牧師の書斎から

2011年4月24日 小平牧生師

イエスキリストの復活は、だれにとってもそう簡単に受け入れられることではありません。その時も、だれもがそんなことは絶対起こるはずがないと考えていました。弟子たちもそうですし、マリヤたちもそうでした。彼女たちはイエス様の遺体がないのを見て、「誰かが墓からイエス様の遺体を取り去った」と思ったのです。彼女たちだけではなく、だれもがそのように考えていたのです。たしかにイエスキリストは十字架上で死なれました。そしてそれで終わったと思ったのです。敵も味方も、みんながそう思ったのです。しかし神のご計画の中で、十字架は終わりではありませんでした。むしろ、それは始まりだったのです。

十字架と復活とは切り離すことはできません。主イエスキリストは私たちの罪を負って十字架に死なれました。そして死から復活されたことによって、私たちはただ愛されているだけではなく、自分の罪が完全に赦されたことを確信することができ、そして新しいいのちと人生が与えられていることをはっきりと知ることができるのです。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)とあるとおりです。パウロはコリント教会に対して、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいるのです。」(1コリント15:17)と言いました。イエスキリストの復活が作り話であれば、私たちの罪はそのままです。イエスキリストの復活がなければ、私たちの天国の再会の希望もごまかしです。

しかし、主はよみがえられました。あなたは愛され、赦され、生かされています。ハレルヤ。