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コラム 牧師の書斎から

2011年8月21日 小平牧生師

「与える」ことは、イエスキリストの生き方だ。そして、クリスチャンだけに与えられた生き方だ。いや、クリスチャンという言い方はふさわしくないかもしれない、なぜならあるクリスチャンにとっては正反対の場合もあるだろうから。しかし、イエスキリストを人生の主として、つまり自分にとって好都合な部分だけではなく、自分の人生のどんな時もイエスキリストを主とする人にとっては、それはイエスキリストが与えてくださったもっとも高貴な生き方なのだ。

ある人は、与えることはイエスキリストだけではない、ましてやクリスチャンにかぎらないと言われるかもしれない。たしかにそうだろう。しかし、無条件で見返りを求めないで自分を与えた方はイエスキリスト以外にいない。なぜなら人は、与えることにおいても見返りを求めるからだ。言い方を変えれば、最高の投資として与えるのだ。しかしイエスキリストが私たちにご自分を与えられたのは、投資ではない。祝福されるからでも、生きがいがあるからでも、報いがあるからでもない。与えても何にもならない者のために与えてくださった。与える価値のない者のために自分を与えてしまわれたのだ。それが愛だ。

松沢好子さんが天に召された。大好きなイエス様のところに行かれた。そしてヒデさんのところに。イエスキリストは完全な愛をもって彼女をつつみこんでくださっている。もう病気はない。ハレルヤ。悲しみもない。ハレルヤ。そこには完全な赦しがある。ハレルヤ。好子さんと出会えたことを感謝し、ご家族の方々のために神様のお慰めを祈りたい。