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コラム 牧師の書斎から

2011年9月18日 澤村信蔵師

敬老の皆様おめでとうございます。先日読んだ『老いを生きる』(教会の課題、キリスト者の課題)という本の中に、こんな文章が記してありました。「今はただ長生きするだけではなく、老いることそのことに抵抗しようとする考えが強くなりました。人間がだんだん衰えつつ死の過程にあるという自然のことを受け入れることができなくなっているだけでなく、老化という自然の過程をも受け入れなくなっているのです。老化を遅らせたり、停滞させるどころか、それに逆行して〈若返り〉に夢中になるということになりかねません。確かにいつまでも若さを保ち、生命力を維持できることはすばらしいことですが、永遠に生きることなどはできません。神が造り主であられることを信じ、受け入れるということは、被造物である人間の自然の姿を受け入れるということです。『老いを生きる』ということは、『老いる』ということを受け入れることす。『老いを生きる』という生き方において、信仰が問われているのです。」確かにそうですね。老いるということを受け入れるむずかしさを感じます。モーセのように、120歳になっても、力強く生きる老人の姿は素晴らしいものです。皆そのようになりたいと願います。しかし、肉体が弱くなることも受け入れる現実としてあるのです。いや、年相応に老いることの方が自然なのです。でも、高齢であるが故の弱さも神様の恵みではないでしょうか。「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(IIコリント12:9)とあるように、弱いからこそ知ることが出来る恵みがあるのです。私たちは弱さを大いに誇ることが出来るのです。私たちは弱いからこそ、なお神により頼むことが出来るのです。年齢を超えて若く健康であることも恵みです。でも、年相応に弱さがあることも恵みなのです。どちらでもあっても構いませんが、皆様に一日でも長生きしていただいて、皆様が持っておられる素晴らしい信仰を私も受け継いで生きたいと願っています。