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コラム 牧師の書斎から

2011年10月2日 小平牧生師

先日、たまたま食事をした中華料理店の名は「壷中天」。家に帰って調べてみると、安岡正篤氏の百朝集に「壷中天」を含む「六中観」ということばがあった。彼は社会の指導者の条件としてこのことを説いているように思うが、以下は「六中観」の自己流解釈。

「忙中閑あり」:どんなに多忙な生活の中でも、世界の創造者である神をさんびする時が与えられている。仕事の合間に、移動の時間に、少し目をつぶって「かみさま。あなたを愛します」とつぶやいてみよう。そこから主との交わりが広がる。「苦中楽あり」:私たちに苦しみのない人生はない。問題が解決して与えられるひとときの平安は嬉しいが、すぐに消え去ってしまう。しかしキリストは苦しみの中にある私たちとともに歩み、私たちに愛と平安を満たし、人生を楽しませてくださる。「死中活あり」:キリストを信じる者は、十字架においてすでに死んでおり、キリストとともによみがえらされている。四方八方から苦しめられているが窮することはない。途方にくれているが行き詰まることはない。2コリント4:7~を見よ。「壷中天あり」:四方八方ふさがりの壷の中に閉じこめられているようでも、私たちには天が開かれている。下を向くな。横の人を見るな。顔をあげて上をみよう。天が見えるでしょ。「意中人あり」:どんな豊かな富にもまさる、愛し合う兄弟姉妹と教会の交わりこそ私たちの宝。順調な時はその価値に気がつかないかもしれないが、つながっていることの意味を知らされるときがある。「腹中書あり」:自分の経験や自分の見識に思いこまず、頼らず、断定せず、ただ神のことばである聖書によって生きる。「あなたのみことばによって生かしてください。」