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コラム 牧師の書斎から

2011年12月18日 小平牧生師

先々週の土曜日、満月が地球の影にすっぽり隠れる「皆既月食」が全国各地で観測されました。欠け始めから終わりまでのプロセスが日本全国で観測できたのは11年ぶりだったようです。そういうことにほとんど関心のない私ですが、夜の10時頃に友人から「空を見上げろ」というメールが来たのでベランダに出てみますと、あまりにもあざやかな欠け具合に目を奪われてしばらく月夜を見上げていました。

ご存知のように、月食というのは、太陽・地球・月が一直線に並び、月に当たる太陽光を地球が遮ることで起きます。ですから「月が欠ける」のではもちろんなく「地球が妨げている」にすぎないのですが、見ている私には「月が欠けている」としか思えません。自分の位置に気がつかないということはこういうことなのだとあらためて考えさせられ、いろいろと自分の月食ぶり?に反省させられる思いでした。

クリスマスのできごとを、ヨハネは「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(1:9)と書いています。救い主を「光」それも「まことの光」として紹介しているのです。そして、この「光はやみの中に輝いており、やみはこれに打ち勝たない」(5)のです。まさに今は暗闇の時代です。どんなに

金や銀で飾っても、またすべてを白色に塗ってみても、光がなければ真っ暗闇です。しかし光があればどんな暗闇も明るくされます。必要なものはまことの光なのです。 同時に、「わたしは世の光です」と語られたイエスキリストが、私たちに対して「あなたがたは世界の光です」と語っておられることに心が留まります。私たちが光であるなんて!でも、もう一度月食のことを思い出して下さい。イエスキリストが「まことの光」であるとは、太陽の光のような光です。しかし私たちが「光」であるとは月の光のような光です。イエスキリストは光そのものです。しかし私たちは光そのものではなく、イエスキリストの光を輝かすものです。もっともっと輝かしましょう。