ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2012年11月4日 澤村信蔵師

先日、「キリスト教入門」(島田裕巳著 扶桑社新書)という本を読みました。信仰入門書は沢山あります。でも、その多くというか、すべてはクリスチャンが書いています。そのような信仰入門書とは違い、クリスチャンではない島田さんが、客観的にキリスト教を見て書かれている本です。信仰ある立場からすると反論したいことも山ほどあるのですが、同時に普段全く気付いていない視点で書かれているので、とても面白かったです。

その中で、なぜキリスト教は上から目線なのかという章がありました。聖書が神やイエスに尊敬語を用いていることについて、こんな文章が書かれていました。「神や開祖が絶対的な存在であり、信者からすれば、本来ならすべての人が信仰すべき対象と考えられているからです。ところが、信者の人たちがそうした態度をとることで、その宗教の内側と外側とを分ける壁ができてしまいます。キリスト教を信仰しない人間には、どうしても違和感を持ってしまい、素直に読めなくなるのです。果たしてそのことに、キリスト教の人たちは気づいているのでしょうか。」とありました。読んでいてはっとさせられました。神に尊敬語を使うということは、私たちとしては当然すぎることですし、使わないという選択肢はないように思います。だからどうすることも出来ないとも思いますが、でも、内側と外側とを分ける壁を作っていないかという指摘は、その通りなのかもしれません。それだけでなく、その壁を作っていることにさえ自分で気づいていないのです。そして、そのもとには、自分たちは特別だ、選ばれた者なのだという選民思想が色濃くあると指摘していました。

主イエスは、すべての壁を取り除いてくれました。罪人や取税人たちとともに食事をされ、彼らの仲間と思われることさえ全く厭いませんでした。イエスご自身には、内側と外側とを分ける壁はまるっきりありませんでした。上から目線ではなく、とともに歩まれました。それなのに、私たちは壁を作ってはいないでしょうか。自分は選ばれた者であるというおごりなどはないでしょうか。もしかしたらその壁があるのは牧師である私自身かもしれません。主イエスのようにともに歩むものとさせていただきたいと心から願います。