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コラム 牧師の書斎から

2012年12月23日 小平牧生師

アメリカで有名な教会の一つは、南カリフォルニアの青い空に高くそびえるガラスの礼拝堂のクリスタル・カセドラルです。この教会の クリスマスページェントは、演じるのはハリウッドの俳優たち、登場する羊も、馬も、らくだもみな本物という本格的なもので、アメリカ中から観客(礼拝者ではなく?)がやって来ます。ある年のクリスマスのこと。空中に浮かぶ天使たちの高らかな歌声で、すばらしいページェントは始まりました。ところが、突然、礼拝堂に強烈な臭いが充満し始めました。男性は顔をしかめ、女性たちはハンカチで鼻を押さえています。その原因は、ローマの兵士が乗った馬がそそうをしたからでした。そこにいた人たちは、2000年前のクリスマスを生で経験することになったのです。(ちなみに、この教会は教会内の争いによってその礼拝堂を売りに出すはめになり、アメリカではテレビのニュースになりました。)

クリスマスは現実です。イエス様の誕生は家畜小屋でなければなりませんでした。その意味を考えることは、クリスマスを祝う私たちにとって大切なことです。家畜小屋には動物の糞尿の臭いが立ちこめていたように、イエス様を迎える私たちの人生にもいろいろなものが満ちています。どんなにタキシードやイブニングドレスで着飾ってクリスマスをお祝いしても、人々の間で争いや憎しみが絶えなかったのです。その結果、今年はそのページェントはありません。しかしその教会の姿を冷ややかにみる私たち自身も、実は同じかもしれません。イエス様は「あなたがたは白く塗った墓のようなものだ。その外側は美しく見えても、内側は汚れたものでいっぱいではないか」と、パリサイ人の偽善を指摘されましたが、それは自分の姿です。問題は、私が汚れたものであることではありません。私が自分の心を閉ざすことです。「主よ。私のこの心に来て住んでください。」