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コラム 牧師の書斎から

2013年3月24日 澤村信蔵師

「わたしは渇く」(ヨハネ19:28) イエス様は、十字架の上で7つの言葉を語られました。その中で唯一肉体的な苦しみを発せられたのが、「わたしは渇く」という言葉です。「最後の晩餐」で飲んだぶどう酒の後には、何も口にされていませんでした。その上、血の汗を流すほどの祈りをされ、兵士たちにつかまった後は、鞭打たれ、いばらの冠をつけられ、釘打たれと、体中から血が流れ、肉体はこれでもかというほど憔悴されておられました。 その中で、強烈な渇きを覚え、発せられたのが「わたしは渇く」という言葉です。でも、この「わたしは渇く」という言葉は、ただ単なる肉体の渇き以上の言葉であったような気がします。サマリヤの女に対して、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13~14)と言われました。「渇き」は、私たちが生きていくために必要ものが足りないときに感じるものです。そしてその背後には、何かによって満たされていない心の隙間があるのです。それこそが渇きです。この渇きをいやすために、サマリヤの女は、次から次へと夫を変えました。そのことによって満たされたいと願いました。でも、満たされるどころか、むしろ渇きは大きくなっていきました。そして、誤った方法により満たしを求めたため、遂には昼間人の前には出れなくなってしまいました。でも、イエスに出会い、イエスによって渇きをいやされた時、彼女は満たされ、誰の前でも堂々と福音を語る者と変えられたのです。私たちの人生もこの「渇き」を満たすために生きているのかもしれません。イエスはこの渇きをいやすため、ご自身が最も渇く者となってくださいました。そして渇きの辛さを極みまで味わってくださいました。私たちの人生の中にも、たまらなく渇くその時があります。でも、私たちの渇きを満たすために、主イエスは十字架にかかってくださったのです。今日もこのイエスをほめたたえましょう。