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コラム 牧師の書斎から

2013年10月20日 小平牧生師

先週紹介しました聖書学院を会場に、毎年春に教団の全国大会が行われます。私たちもそうですが、牧師たちは子どもたちをつれて家族旅行のように大会に集まります。大会の期間私たちはスケジュールが詰まっているのですが、子どもたちはずっと自由に遊んでいました。そのような中から彼らの間で自発的な賛美集会が始まり、やがてYouth Daysという集会になりました。そして、牧師の子どもだけではなく青年たちが集まるようになりました。講師の先生が「また呼んでください」というような集まりです。

大会が近づくとfacebookでは「早く羽鳥に行きたい~」「俺も早く行きて~」「私も行けるように祈って~」というような投稿が交わされるようになります。私はそれを観て、最初はまったく理解できませんでした。なぜなら、私が子どもの時は「羽鳥なんか行きたくなかった」からです。「春休みやなのに、なんでそんなところにいかなあかんのか。」そう思っていました。今考えると、ただ連れて行かれていたからだと思います。

このことからわかるのは、喜びのあるところに人は集まる、ということです。「礼拝を第一にせなあかん」といくら言っても、人は動きません。反対に、喜びがあれば「来るな」と言っても来ます。伝道も、教会開拓も、献身も私たちはわかっています。月定献金も奉仕もすべきことは知っています。でも、喜びが必要です。もちろんその喜びの質は問われます。「彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらずあふれ出て、惜しみなく施す富となった」とある通りです(2コリント8:2)。かと言って、どこかにそんな喜びを探す必要はありません。喜びのあるようなふり(?)をする必要もありません。なぜなら私たちのうちにはイエス様の喜びが与えられているからです(ヨハネ15:11)。問題は私たちから喜びを奪うものです。それはなにか?あとは聖書に記されているので読んでください。ガラテヤ5:16~24。