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コラム 牧師の書斎から

2013年10月27日 小平牧生師

旧約聖書のダニエル書を読むと、迫害を受ける若者たちの話が出てきます。彼らは言います。「もし、そうなれば、私たちの仕える神は火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えずあなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(3:17-18)三人の若者は、もし自分たちが燃える炉の中に投げ込まれたとしても、神さまは私たちを助けることができるお方であると信じる、と言います。そして次に、しかしもし神さまがそのように私たちを助けることをなさらなかったとしても私たちの信仰は変わらないと告白しています。そこには神さまの全能に対する確信と、神さまの摂理/みこころに対する信仰があるのです。これは私たちの信仰生活になくてはならない両面だと思います。これがなければ私たちの信仰は、単なる積極思考に陥ります。

私たちは、神さまの全能を信じます。イエス様は「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:17)「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(同9:22)と言われます。ですから、私たちはどんなに危機的で絶望的な状況にあっても全能の神を信じ、「神様はしてくださる」と告白し続けます。しかし、それだけでは私たちの信仰というものは一面的です。実際の信仰生活は行き詰まりを覚えるでしょう。なぜなら、「もしそうでなくても」という可能性が常に存在するからです。彼らの「もしそうでなくとも」という言葉には、自分たちの思いは自分たちの思いとして神さまに願いつつも、しかし自分たちの思いは神様の思いと異なっているかもしれないという、神様に対する彼らのへりくだった姿勢が表れています。

私たちの願いと神さまの思いは必ずしも同じではありません。というより、同じはずとは言えません。神さまは無限ですが、私たちは有限です。私たちは自分のことや今のことしかわかりませんし、何と言っても罪の性質を持っている者です。私たちの思いを超えた、神さまの時、神さまの方法、神さまの計画があります。そして、その神さまのご計画が、私たちにとってもまちがいなく最善なのです。