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コラム 牧師の書斎から

2013年12月1日 小平牧生師

クリスチャンホームで育った私ですが今までに一度だけクリスマスをひとりで過ごしたことがあります。それは成増教会に通っていた大学生の時でしたが、人間関係がうまくいかず、礼拝や奉仕にも喜びがなくなってしまい、前日にはクリスマス礼拝や青年会の準備をしながら、翌日のクリスマスは教会に行くことができませんでした。下宿でひとり布団の中にうずくまっていた私は、何もかも嫌になり、全部投げ出したい思いになってしまっていました。そんな私の状態でしたが、不思議なことにふと一つの賛美歌が頭に浮かび、何気なく口ずさみました。

「馬槽の中に産声あげ 木工(たくみ)の家に人となりて 貧しき憂い生くる悩み つぶさになめしこの人を見よ。食する暇もうち忘れて 虐げられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心砕きしこの人を見よ。すべてのものを与えし末 死のほか何も報いられで 十字架の上に上げられつつ 敵をゆるししこの人を見よ。」

一生懸命に賛美したり、奉仕したりしていた私ですが、その視界にはイエス様はありませんでした。見ていたのは自分の回りにいる人々だったのだと思います。自分にあるのはイエス様を愛する心ではなく、むしろ教会の人々をさばく心や高ぶり、自分のしていることが評価されたいという思い、そういうものが自分の心に満ちていることに気がつきました。「イエス様はこんな自分のために人となられた。」そんなことだれよりもわかっていたはずなのに…。私は布団の上で這いつくばって祈っていました。言葉にならず、涙ばかりでしたが。

それは教会に行けなかったたった一度のクリスマスですが、しかし私の人生でもっともイエス様に近くされたクリスマスだったかもしれません。