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コラム 牧師の書斎から

2013年12月15日 小平牧生師

先週は教団の理事会の出張で北海道の斜里(しゃり)というところに行きました。斜里町と言われてもほとんどの方はわからないと思いますが、世界自然遺産である知床の町です。知床半島の付け根から中央部までのあたりで、知床岳、羅臼岳、そして斜里岳という山々がそびえています。斜里町にあるたった一つの教会が、兄弟団の斜里教会なのです。そこにも10名たらずの人々が集って礼拝を守っています。

教団理事長の私の仕事は、地方の教会を訪ねることです。被災で有名になった石巻教会、放射能の問題をかかえる福島教会、過疎の町にある秋田教会、そして岐阜県の山のまた山の中の東白川教会、長野県の杏の里(あんずのさと)教会。杏の里教会を除くとこれらはみな牧師の定住していない教会で、斜里教会や東白川教会は町にたった一つの教会です。

教会のメンバーの高齢化、特に小さな教会の高齢化はそのまま教会会計に直結しますが、それだけではなく牧師数が不足しているために遣わす牧師もいません。仮に遣わしても、そのような状況の中では厳しさや孤独のために精神的に弱さを覚える方々も頻発します。私の務めは、そういう中でいかに教会を存続させ、存続させるだけではなく伝道を進めるために、教団としてできることを考えることです。しかしどんなに考えても無理なのです。お話を聞いて、みことばを開いて、励まして、祈って帰って来ますが、では何かとなると具体的に打つ手がありません。

でも悲観的になりません。いや、なれないのです。神さまはすべての人々を愛しておられます。私たちは自分の教会や働きの祝福を考えますが、人々の救いそのものを願っておられるのは神さまご自身だからです。何も大きな教会がいいわけではありません。小さくてもいいのです。大切なことはイエス・キリストがその真中におられることです。方法もいくらでもあるのです。牧師がいなければ、信徒がやればいいのです。建物がなければ家で礼拝すればいいのです。馬小屋、マリヤ、羊飼い、東方の博士、クリスマスに登場するのはすべて「この世の考えではふさわしくない」ものです。逆転の発想なのです。