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コラム 牧師の書斎から

2014年1月26日 澤村信蔵師

I列王17章24節「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」この言葉は、エリヤが、ききんの折にかくまったツァレファテのやもめが語った言葉です。彼女は、エリヤに出会う前、ききんのゆえに、最後に残ったわずかな粉と油をほんの2、3本のたきぎで調理し最後の食事をし、息子ともに死のうと思っていました。でも、エリヤは、その状況を知りながら、「まず私のところに持ってきなさい。それから、あなたとあなたの子供のために作れ。イスラエルの神、主がこう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせるまでは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」と神の言葉を告げます。彼女には、非情な言葉に聞こえたかも知れません。でも、それに従ったのです。そして実際彼女の家の油も粉もなくなることはなく、神によって養われ続けます。でも、彼女が先ほどの言葉を発したのはこの時ではありません。その後、彼女の息子が病にかかり、死んでしまいます。その時彼女はエリヤに訴えます。「あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるためにこられたのですか。」と。その時、エリヤはすぐさまその子を取り、自分の寝台の上に横たえ、3度その子の上に身を伏せて主に祈ります。「私の神、主よ、どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」そして、子どもは生きかえりました。その姿を見て、このやもめは悟ったのです。エリヤが真に神の人であり、主のことばが真実であると。最初の奇跡では分からなかったものが二つ目の奇跡では分かったのです。その違いは何でしょうか?どんな奇跡であったかという問題ではありません。ただ二つ目の奇跡には、特別なものがありました。それはエリヤの愛です。死体に触れ、その子の上に身を伏せて祈るその姿には、この子のために、そして、母親のためにという愛情があふれています。その愛情に触れた時、彼女は、神を知ったのです。奇跡ではなく、エリヤの愛を通して神を知ったのです。そしてそのエリヤの祈りにこたえてくださる愛なる神様がおられるのだと。私たちが人に伝えていくのもこの愛です。どんな奇跡よりも、私たちの愛が人の心を神に向けるのです。