ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2014年2月16日 小平牧生師

先週、神戸で行なわれた「第三回東日本国際神学シンポジウム」に出席しました。世界で一番大きな神学校であるフラー神学校のファン・マルチネスという先生が、迫害と殉教の中から生まれたアナバプティズム(再洗礼派)の信仰から「苦しみ」ということについて様々な角度から話してくださいました。その中で、マルティネス先生は「苦しみというのは私たちが人間として当然経験することであるとともに、キリストの生き方に従おうとする者に求められることである。」また「神は私たちの苦しみのうちに働いておられ、苦しみの中にあって私たちが神を認識することができるように、私たちを招いておられる」ということを話してくださいました。

興味深かったことは、「私たちは苦しみを思い出し、繰り返し語り続けていかなければならない」という内容でした。日本人はどちらかと言うと、過去の痛みや苦しみはそっとして触れないでおくことが多いと思います。自分の心の内に閉じ込めておくのが日本的な姿でしょうか。しかし、先生によれば、「苦しみは語り合うことによって、はじめてその意味を理解することができるようになる。個別の苦しみが、神様の大きなみ業の中に位置づけられるようになる」ということでした。もちろんそこに至るまでに悲嘆のプロセスがありますし、語ることによって再び傷を受けることもあります。しかしそのような道を通らないかぎり、癒やしと回復、そして成熟への道はないのです。

私たちの教団もそうですが、成増教会にも喜びの歩みとともに苦しみの経験があります。あるいはそれはまだ充分に語ることができていないかもしれません。隠れたところに押し込めたままで、あるいは忘れ去ろうとして、新しい働きに取り組もうと試みるかもしれません。たしかに、語ることは苦しいことです。しかしキリストに従う者にはその力があるのです。なぜなら十字架のイエスキリストの苦しみを知っているからです。苦しみの中でイエスキリストを発見することができれば、教会はこの社会にあって苦しみの中にある人々に慰めと力を与える交わりとなることができます。