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コラム 牧師の書斎から

2014年4月20日 小平牧生師

キリスト教信仰の本質は、イエスキリストの十字架と何よりも復活にあります。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(1コリント 15:17 )とあるように、イエスキリストの復活がなければ十字架の死さえも意味はありません。私たちはイエスキリストによって愛されていたとしても、復活という事実がなければ信仰はむなしいのです。死の現実と力とはそういうものです。愛されているだけでは死の力は打ち破れません。聖書の中でソロモンは、「私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ」(伝道 2:11)と嘆いています。ソロモンは決して悲観主義者はではありません。彼は死につながれた人生の虚しさを悟っていたのです。

21世紀になって、日本人の死生観が「死んだら極楽に行く」から「死んだら無になる」という考え方に変化したと言われています。そのために人々の葬式離れが急増しているようです。「死んだら無になる」のなら、葬儀にお金を使う意味はないということでしょうか。しかし「死んだら無になる」という考え方が私たちにもたらす結果は想像以上に大きものです。というのは、「死んだら無になる」ということは、そのまま「生きていることも無である」になるからです。死の力とは単に肉体の終わりではなく、人生の営みを無意味にしてしまいます。しかし、生きている私たちにとって、無意味ほど恐ろしい拷問はありません。それこそ死の力の本質なのです。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(1コリント15:20 )イエスキリストの復活はただ単に奇跡的なできごととして意味があるのではありません。「死んだ人が生き返った。すごい!」ということではなく、イエスキリストの復活は、私たちの人生を無意味にしてしまっている力を粉砕したということなのです。復活のいのちに生かされて初めて人生は意味を持つのです。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(1コリント15:58)