ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2014年5月25日 澤村信蔵師

先週は教職セミナーに行ってきました。今回のテーマは説教でした。皆が同じ聖書箇所から説教を行い、互いに批評し合うのです。課題として与えられたのはガラテヤ2章15節~21節で、今回この箇所を通して教えられたことは、信じることによって義と認められるということがどんなに素晴らしい恵みかということです。「律法の行いよって義と認められる者は、ひとりもいない」(16節)とあるように、行いによって義と認められることは不可能です。むしろ、律法があると、自分がどんなに罪深い者かいやというほど教えられます。そして、行いによる義は不可能だと悟り、イエスを信じる信仰によって義と認められるということを知り、信じたのがクリスチャンです。まさに「信じるだけで救われる」を体験したのです。その他のものは何もいらないのです。まさに神の恵みというほかありません。

でも、ここで語られているのは、救われるときに、信仰だけで始まったというだけではありません。救われた後も信仰だけしかないのです。これが大切なのです。ペテロやバルナバたちは、救われた後、もう一度律法を守らないといけないかのように行動しました。律法を守っていない異邦人クリスチャンとの交わりを避けたのです。そして、暗に信仰のほかに行いも必要だと言ってしまっていました。だからパウロは指摘したのです。ペテロたちと同じ傾向は私たちにもあります。イエス様を信じて救われたら、あたかも自分がましな人間になったかのように錯覚します。そして、まるで神の律法を自分は守ることができているかのように振る舞うのです。時には、あの人は神のことがわからないからといって人を裁くことさえあるのです。でも、私たちは本当に人を裁けるものなのでしょうか。私たちは、どこまで行っても罪人で、律法を守れないものです。私たちが義と認められる基準は行いではないのです。だから行いで比べるのではないのです。最初がそうであったようにどこまで行っても信仰です。信じるだけで救われるのです。神の御子を信じること以外に付け加えるものはないのです。私たちはこの基準を自分にも他の人にも当てはめてともに神の御子を信じて歩んでいきましょう。