ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2014年8月3日 小平牧生師

 教会における福音宣教とカウンセリングの関係について関心をもっている方も多いと思いますので、整理しておきたいと思います。クリスチャン精神科医のトゥルニエは、そのことを「大海で溺れている人と浮き輪」のたとえで説明しています。つまり、私たちに与えられた唯一の救いの道は、イエスキリストの十字架と復活の福音を信じることであり、人はこの福音という浮き輪にすがることによってのみ救われるのです。他には救いの方法はありません。しかし、私たちの中にはこの浮き輪にしがみつきたくとも、たとえば筋肉が麻痺してうまくしがみつけないような人や状況があります。そのときには腕のマッサージをして浮き輪にしがみつけるように助けてあげることが必要であり、これがカウンセリングです。
 このたとえでおわかりのように、カウンセリングは私たちにとって大切であり有効ですが、しかしそれ自体は浮き輪ではありません。手足や心が健やかになることは大切なことです。しかしそれは大海で溺れそうになっている状態からの解決にはなりません。浮き輪にすがる力や体力があっても、実際につかまらなければ救われないのです。もちろん反対に、私たちが抱えている問題のすべての原因を自分の信仰が足りないからだととらえてしまうことがありますが、これもまた極論であって具体的な解決の方法としては正しくないでしょう。
 ところで、日本で指導的なカウンセラーの方が日本の教会の困難さに触れて次のように書いておられました。それは、かつて日本の教会では牧師は大海で溺れる人に福音という浮き輪を示せば良かったが、現代はその浮き輪につかまることのできない人が多いというのです。たしかにそのためにカウンセリングが非常に用いられています。多くの本が出版され、賛美もそういう傾向のものが多く作られ、また講演会なども盛況です。またその一方では、溺れそうな人を助けようとして反対にしがみつかれて結果的に一緒に溺れてしまう、そう事例もよく聞きます。このように、カウンセリングは救いのために大切ですが、その目的と限界をよく知っておく必要があります。