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コラム 牧師の書斎から

2014年8月24日 小平牧生師

 「ジャンケンで決めよう」といっておきながら、自分が負けた時には「やっぱり二回負けたらにしよう」なんて言い出す人がいます。これが子どもの遊びならいいですが、人生や社会の根幹のルールや基準に関することなら問題です。何か起こるたびに自分たちの都合の良いようにルールを変えるなら、それはもはやルールの意味をなさなくなるでしょう。そんなことをしていたら他の人から信頼されなくなるどころか、その人自身も筋の通った生き方はできないでしょう。たとえば、国では放射線被曝量は一般人の被曝限度は年間1ミリシーベルト以内と定められており、三カ月で1.3ミリシーベルトを超える場所は放射線管理区域に指定されて立ち入りや飲食が禁じられているにもかかわらず、政府は震災後に「福島県内の学校等で子どもたちが安全に過ごせる被曝量限度を20ミリシーベルトまで引き上げる」と発表して、福島の人たちから非難を受けました。「え?安全って何なの」ってだれでも思いますよね。
 しかし、人は多かれ少なかれ、自分勝手にルールや基準を変えてしまいます。クリスチャンでも「変わっちゃったな」という人はめずらしくありません。「礼拝は第一にする」とか「1/10献金をする」というのはクリスチャンの基準でありルールであったはずなのに、いつの間にか変わっていきます。それが礼拝や献金の聖書の本質を求めてのものならば良いのですが、自分の都合で変えてしまうのです。
 神様は人間を無意味に造られたのではなく、祝福の目的をもって創造されたのです。そういう目的があってこその命令であり、その目的を外れることが罪なのです。神様の神様の命令の根幹には愛と祝福があるのです。ところが、そのルールや基準を自分の都合のように変えてしまって、しばらくすると周囲のみんなもそれに平気になってしまうことがあります。そういう意味で、ますますこれから教会の交わりは大切になってきます。「それはだめ」「あなたはまちがっている」とはっきり言ってくれる人が重要な存在です。時代が変わっても、基準を変えない信仰と柔軟な生き方を見せてくれる人が求められています。