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コラム 牧師の書斎から

2014年9月7日 澤村信蔵師

 職もお金も、人間関係も社会的地位もなく、失って惜しいものが何もないから、罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」と呼ぶのだそうです。少し前に、「黒子のバスケ」というアニメに対して、脅迫事件を起こした36歳の男性が裁判の意見陳述で「無敵の人」を自称しました。彼は、自分の人生を最悪だと言い捨て、こう述べています。「自分がいかに自己愛が強くて、怠け者で、他者への甘えと依存心に満ち、逆境に立ち向かう心の強さが皆無で、被害者意識だけは強く、規範意識が欠如したどうしようもない人間であることは、自分自身が誰よりもよく分かっています。」「それでも自分は両親や生育環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法をやめる気はありませんし、やめられません。」 もうどうすることも出来ないほど悪い状態だから、罪を犯すことにも何の抵抗もない。自分をこんな状態においてしまっている社会を恨むのです。そして、最期の最期まで自分の非は決して認めず、自分をそんなふうに追い詰めたまわりの人間を憎み、自分を認めなかった世界を呪いながら死んでいくのかもしれません。事実、一旦は喜んで刑に服すと語りながらも、控訴しました。
 でも、それとは、違う無敵の人がいます。それは、ペテロを始めとする私たちクリスチャンです。たとえ全世界を失ったとしても、まことのいのちが与えられていることに喜びを見出すからです。すべてのものを失っても、キリストが内に残るからです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言えるからです。ペテロはまさにキリスト以外何も持たない人になりました。キリストが内に生きておられるので、それで十分という生き方をしました。だから、美しの門で足の不自由な物乞いの男に、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言って、キリストの御名を与えたのです。(使徒3章)。これぞイエス様さえいれば大丈夫という無敵の人の姿です。何を失っても、イエスがいるから私たちは何も恐れず何でも出来るのです。私たちこそ、本当の「無敵の人」なのです。