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コラム 牧師の書斎から

2014年11月16日 小平牧生師

会議に出ると、紙の上下左右の余白を最低限にして資料を作ってくる人がいます。紙いっぱいに文字やら数字やらが印刷してあって、読む気はしないし見ているだけで気持ち悪くなります。しばらく前に「マージン」というタイトルの本を見かけたことがありましたが、マージンとは余白のことですね。私たち現代人は、余った時間やスペースはもったいないとして、何かで埋めてしまいたくなります。でも、人生には余った時間や行動が必要です。美術館に行くと、大きな部屋に一枚しか絵がかけられていない部屋もありますね。だからこそ、その絵が語りかけてくるのです。美術館のスペースの効率を考えて、壁一面に絵がかけられていたらうんざりですね。公園や美術館に行ってホッとするのはスペースを余分にとっているからなのです。街づくりでも同じです。どんなに多くの住宅が必要でも、公園を造らなければ人の生きる環境にはなりません。

イエスキリストは、一週間のうちに非生産的な安息日を設けて、私たちにそれを守るように命じました。この非生産的な時間こそ実に生産的であり、私たちに生命を満たす時間なのです。昔の人の祈りの中に、よく「なんじら静まりて我の神たるを知れ」(詩篇46篇10節)との聖句が引用されていましたが、新改訳で「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と訳されていますように、それはただ静かにするというより、人の業を止めるということです。祈っていても、頭のなかではいろいろぐるぐるしている私たちです。しかし、頭もからだもその歩みと働きをとめて、神の前にへりくだる。それによって残りのすべての時間や業が祝福されるためです。これまでの歩みを祝い、この先の歩みのために幻を再確認します。創造的な人はマージンを確保し、アクティブな人はセラの時間を大切にします。クリスチャンは何も持っていないように見えても、すでにすべてを持っているのです。