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コラム 牧師の書斎から

2014年12月21日 澤村信蔵師

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。」(Iヨハネ4章9節)

旧約聖書と新約聖書がありますが、その境目は、主イエス・キリストの誕生です。でも、旧約聖書と新約聖書において、神様が変わられたわけではありません。神様は全く変わってはおられません。でも、人々の神観が大きく変わります。旧約聖書の時代のユダヤ人にとって、神は恐れと崇拝の対象でした。従わないと罰せられる存在でした。でも、主イエスの誕生以降は、違います。神は、畏れる対象ではありますが、恐れる対象ではなくなりました。それよりも愛する対象となりました。それは、神なるお方が人となってくださったからです。『だれもかかなかったイエス』(P・ヤンシー著)の中で、このことが印象深く記されています。『神は飼葉おけに寝かされた赤ん坊となっておどろくべき出現を果たした。手足がはみ出さないようにぴっちりと布でくるまれた赤ん坊以上にこわくないものがあろうか。神はイエスの名かに、恐怖なしで人間と関係を持つ方法を見出されたのである。…彼らの認識を変えるには受肉という形態をとる必要があると、私は気づくようになった。…人間が魚になることなど、神が赤ん坊になることと比べれば何でもない。しかしそれでも福音書によると、それこそがベツレヘムで起きたことだったのである。…神は現実の人格だけを使って、現実の歴史のページに話を書いた。「言葉」は肉になったのである。』

預言者たちは神のことばを届けました。でも、主イエスは、人とのかたちをとられた神のことばそのものです。ことばをとおしてだけでなく、ご自身を直接現されたのです。手で触れ、耳で聞き、目で見ることが出来る存在へと降りて来てくださったのです。そして、同時に、それは私たちを神のレベルにまで引き上げてくださったということでもあるのです。そのために、まず恐れとは対極にある赤ん坊の姿になって来てくださったのです。だから今日も私たちは恐れることなく神に近づくことが出来るのです。