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コラム 牧師の書斎から

2016年4月3日 小平牧生

ある人が、砂漠を旅していました。彼は日差しの厳しさと旅の疲れでのどが渇ききっていました。やがて、目の前にわずかな緑の木陰と井戸を発見したのです。彼は力をふりしぼって井戸に込んでしまいました。その時、彼の指先に何かが触れました。見ると、そこに一本の竹筒がころがっています。「何だろう」と思って拾いあげて振ってみると、その竹筒の中には水が入っているのです。「ああ!助かった」と、その竹筒の水を飲もうとしたところ、その竹筒に次のような文字が記されているのが目にとまりました。

「この竹筒の水を全部この井戸のポンプに注ぎ込んで水を汲んでください。そして最後に次の人のために、またこの筒に水を満たしておいてください。」

さあ、みなさんならどうしますか。この竹筒の水を「誘い水」として井戸のポンプに注ぐべきか。それとも自分の渇きを癒すべきか。注ぎこんだら、ひょっとしてすべてが無駄になるかもしれない。しかし、あふれる井戸の水の呼び水となるかもしれない。チャレンジですね。彼は、その竹筒の水をすべてポンプに注ぎ込みました。そして力を込めてポンプの柄を動かしました。二度、三度…。すると「ゴボッ、ゴボッ」という音とともに、井戸の底から水がわき上がって来たのです。彼は、ポンプからのあふれる水で渇きを癒し、新たな力を得てまた歩き出しました。もちろん、その竹筒に水をいっぱいに満たして、そこに残してです。

自分が見出した水、それを飲めば自分の渇きを癒すことができます。しかし、リスクを恐れずにそれをポンプに注ぐことができれば、自分が満たされるだけではなく他の人々にも豊かな祝福が注がれます。そんな私たち、そんな教会でありたいと思います。