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コラム 牧師の書斎から

2016年5月29日 澤村信蔵

先々週から、ある方が成増教会の礼拝メッセージをインターネットを通じて聞いています。彼は、これまでいくつもの教会に行ってきました。でも、それらの教会で多くの痛みを経験しました。喜びと感謝も体験しましたが、同時に心無い言葉をかけられたり、騙されたり、そして、最後には、教会に行くことが苦痛になってしまい、家からも出る元気もなくなってしまいました。
でも、その彼がインターネットで礼拝を始めたのです。先々週の礼拝は、最初の賛美からかぶりつくように見て、賛美をともにささげ、祈りをともにし、御言葉の前に出たときに、心が癒されていきました。そして、先週の礼拝には、いつもより早く目が覚めて、礼拝が始まる前から、待ち望んで礼拝に備えました。そして、礼拝をともにささげることにより、多くの恵みと祝福、そして慰めを受けました。こんなに礼拝をささげることが楽しいのかともう嬉しくてたまらない様子でした。日曜日に話した時には、もう今から次の日曜日の礼拝が楽しみでたまらないと話してくれました。
その彼の言葉を聞きながら、私自身はとても嬉しかったとともに、非常に教えられました。私は生まれた時から教会に連れて行かれて育ちました。幸いにして、思春期の頃も礼拝に行きたくないと親ともめたことはありません。いつも素直に礼拝には集っていました。そのこと自体が神様の恵みなのだと思います。でも、彼のように、日曜日の礼拝が終わったときから、次の礼拝が楽しみでたまらないというような思いをした記憶がないのです。でも、本来は、礼拝はそのような場であるはずです。なぜなら私たちの愛する方、神に出会い、最高の神に賛美礼拝をささげる場であるからです。でも、同時に思うのです。彼が今まで行ってきた教会でささげてきた礼拝も同じ礼拝であったはずです。賛美やメッセージは違ったのかもしれません。でも何より違ったのは、彼の思い、期待です。彼が期待して臨んでいれば、同じように感謝と喜びにあふれたのではないでしょうか。私たちも今日の礼拝に心から期待して、ともに主をあがめましょう。