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コラム 牧師の書斎から

2016年6月26日 澤村信蔵

先日、JEF(日本福音連盟)の総会に出席してきました。四重の福音を掲げている団体がともに集まっています。総会で、それぞれの教団が抱えている問題や課題などが挙げられましたが、そこには、信徒、牧師の高齢化、また、地方教会の閉鎖や合併などどこの教団でも同じような課題が挙げられました。実際、インマヌエル綜合伝道団は、教会の閉鎖や合併などのひっ迫した問題を抱え、他教団との模索を真剣に検討した結果、JEFに加入することになりました。兄弟団も同じような問題を抱えています。地方の教会では、牧師が兼牧をし、教会も牧師も疲弊している現状があります。
そういう状況の中、どこに希望があるのかと思います。でも、ペテロとヨハネが、生まれつき足の悪い人にかけた言葉に目を止めたいと思うのです。「「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒3:6)確かに、私たちには、金銀はないかもしれません。そして、それ以上に金銀など目に見える何かにすがろうとする私たちがいるのではないでしょうか?無いものねだりのようにして、私たち自身が、目に見える何かを求め続けているのです。私たちは無いものに目を止めても意味はありません。むしろ、それは私たちを余計苦しめるものです。でも、私たちに確かに与えられているものがあります。それは、ナザレのイエス・キリストの名です。主イエスを私たちが私たちに与えられている恵みに私たちは気づいているでしょうか。ちょうど、自分の真下に石油の源泉があることを知らずに、貧しさの中に憂いている人のようです。そこに宝があるのに、その宝が無いかのように、宝の価値に気付いていないのです。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)自分が持っている宝の価値を知るならば、私たちは希望にあふれて歩むことができます。