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コラム 牧師の書斎から

2016年7月10日 澤村信蔵

 ある船頭と客の会話です。「船頭さん、この水は塩辛いね。」「そりゃ、海の水ですから」「それじゃあ、あの魚たちも塩辛いかね」「そんなわけないですよ。だって魚は生きているのですから」どんなに大きな魚も命がなければ、塩気が身体にしみこんできますし、どんなにゆるやかな流れにも流されていってしまいます。逆に、どんなに小さい魚であっても、そこに命があれば、塩気をはねのけて、流れに逆らって泳いでいくことができます。大きさは何の問題にもなりません。生きているものと、死んだものの間には、見かけは同じであっても、雲泥の差があります。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)これを読んでおられるということは、あなたは今どういう状態であれ生きています。呼吸もしてれば、心臓も動いています。でも、生きるという事は肉体が生きているというだけではありません。魂が生きているか、それが問題です。私たちがこの世に生きていると、マイナスに作用させるものが山ほどあります。私たちのいのちを弱らせ、塩が心の中までしみこんでくるかのように、かたまってしまうことがあります。もうだめだという絶望感や、どうすることも出来ない不安に包まれてしまうことがあります。自分自身に奮起させて、何かをしようとしても逆に苦しくなってしまいます。実際、これ以上何をどう頑張ることができるのかと思います。もう疲れてしまっているのです。でも、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとへ来なさい」と言われるイエス・キリストのいのちが与えられると、状況は一変します。自分の頑張りや努力ではなく、それ以上に、イエス・キリストの生ける力が私たちを覆うのです。どんなに小さくても、そこにいのちがあるからです。「わたしは、よみがえりです。」と語り、死をも打ち破ってくださったお方は、私たちを死んだ状態の中からでも生かすことができるお方なのです。私たちは、今日もこのよみがえりの主を心から賛美しましょう。そして、このお方のいのちに生かされてこのお方とともに歩んでいきましょう。