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コラム 牧師の書斎から

2016年7月17日 澤村信蔵

「天の御国は、畑に隠された宝のようです。人はその宝を見つけると、それを買うしておいて、大喜びで帰り、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13章44節)少し想像してみて下さい。自分が畑の中を歩いていると、偶然にも宝を見つけたのです。その宝は、自分が一生かかっても到底手に入れることが出来ないものです。今持っている財産でも、将来手にする財産でも買えないような宝です。
 しかも、周りを見渡してみると、誰も宝には気づいていない雰囲気なのです。さあ、あなたならどうしますか?私なら、何もなかったふりをして、と言っても心の中は動揺しまくりですが、平穏を装い、そして、その畑を買うために自分の持ち物全部を売り払います。周りの人は、あの人ちょっとおかしくなったのかなと言うでしょうが、お構いなしです。「私はあの畑を買います。」と。「全財産を本気で売るのか」と問われても、「はい。大丈夫です。」詳しい説明はしないで、畑を買いに行くのです。
 でも、ふと一人になると、もう笑いがこみあげてくる。全財産を犠牲にする?何を馬鹿なことを言っているんだ。私がこれから手に入れるものは、この全財産よりもはるかに価値のあるものだ・・・そして、喜んで全財産と交換に、それにまさる宝を手に入れるでしょう。
 これこそ、聖書が私たちに示しているイエス・キリストの価値です。イエス様は、すべてのものを売り払っても、自分のものにすべき価値あるお方なのです。イエスの弟子となり、イエス様に従っていくために支払う代償より、弟子にならないで、イエス様を失う人生を選ぶことによって失う代償ははるかに大きいのです。しかも、私たちは、誰でもこの主イエスという宝物を、望めば、得ることができるのです。
 もし、私たちがイエス様に従うことのために失う代償が大きいと万が一にも思い間違いしているとすれば、それは主イエスを得ることの最高の価値を知らないからです。ぜひ今日の礼拝において、主イエスを知る価値をぜひ見出してください。あなたにとっての最高の価値、主イエスを見出す時となりますように。