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コラム 牧師の書斎から

2016年7月31日 澤村信蔵

 人生において、私たちは、幸せを求めます。誰もが幸せ、ハッピーであることを望みます。でも、この幸せは、非常にはかないものです。うまく行っている時は、いいのです。でも、病気、事故、災害など、何かしら不運な出来事がやってくると、途端に自分は不幸だと感じます。一瞬にして、幸せから不幸への転落がやってくるのです。そして、「事故にさえ会わなければ、自分は幸福なのに。」「あの災害にあったから、自分は不幸になってしまった」そうやって、いろんなことを思います。私たちが求める幸せというのは、いつも条件付きです。「もう少し何かがあれば、自分は幸せになれる。」「あれがないから、自分は不幸だ」自分の願望や欲求が満たされたら幸せ、満たされなかったら不幸となるのです。
 でも、神様が語るのは、幸せの追求ではなく、喜びの追求です。幸せと言うのは、表面的なことです。起きる出来事に左右されてしまうのです。でも、喜びはそうではありません。内側からあふれてくるものです。「いつも喜んでいなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16節)と神が言われるように、どんな状況の中にあっても喜びことは可能なのです。私は、病の中にあっても、喜びがあふれている人を知っています。一日中ひっきりなしに続く痛みの中で、感謝と喜びがあふれるというのです。「ずっと続く痛みの中で、私のために十字架の上で苦しんでくださったイエス様のことを覚えると感謝があふれてくるのです。イエス様の痛みの千分の一、万分の一の痛みを教えてくださったことを覚えると本当に感謝と、喜びが出てくるのです。」と言われるのです。病いの痛みが、さらに主イエスへの思いを掻き立て、喜びにあふれることができるのです。私たちは、どんな状況の中にあっても、主イエスに留めていくなら、必ず喜びがあふれてきます。「いつも喜びなさい。・・これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5章18節)